昭和56年2月28日 朝の御理解
              御理解 第94節                      「信者に不同の扱いを、しな物を余計に持って来ると、それを大切にするような事ではならぬ、信心の篤いのが心の信者ぢゃ。」  


 お取次をさせて頂く教師に対する、まあ御理解だと思います。けども、御信者の皆さんが頂かれる時、それを、この御教をどう頂かれどう感じられるか。どうでも一つおかげを受けて、信心の手篤い、実意丁寧な信の信者を目指させて頂こうという、思いが頂けなければならんとこう思うです。教師に対するは、まあよい信者とか悪い信者とかというものはないのだ、お供えをたく山するからよい信者というのじぁないのだ。
 だからそれを大事にするというような事ではならんと、まあいわば、人間心ではお取次は出けないぞとおっしゃっておられるわけですね。確にこれは私が長年お取次させて頂いてそれを思いますね。たしかに、その又いうなら良い信者とでも云うでせうか、お参りがよく出来たり、お供えが出けたりすると、こりぁまぁ自然人情として大事にされるわけですけれども、けれども私はこの辺の所がね、結局神様から大事にされる信者氏子にお取り立て頂かにぁならんという事ですね。結局真の信者、真の信心を目指して精進をする氏子の上に、神様はその働きを表わして下さるわけでせうけれども、その働きそのものがなら、日参であり、教聴であり、心行であり、御用であり、奉仕であるという事に繋っていかねば、よい信者じぁと、真の信者じぁという事にはならないとこう思うです。
 だから、そういうおかげを頂く事の為にもどうしても人情をはずしたなら、生き方・人間心をはずした、いはば生き方が出けなければならんと思う。取次者としてはまあ人情をはずしてといふでせうかね。まあ、いうなら神ながらと云ったがよいでしょうね。神ながらなお取次をさせてもらう。というて云うならば、よい信者というでせうか。御用が出けたり、奉仕が出来たりする御信者に対するその態度というものが、人間心を使うて大切にするのではなくて、いわゆる神ながらに接するという事は、どういう事になるかというと、神様が大切にして下さる。取次者をとおして神様が大切にして下さるという所がはっきり出てくるのです。いわゆる人間心ではない。いわゆる神ながらなんです。まあ一例ですけれども、昨日、一昨日ですかね。大和さん達が、朝の御祈念に出てみえて又お宅祭のお礼を御夫婦、それに白神先生達夫婦四人でお礼参拝してみえた。私は宅祭のお礼に出てみえた時に、私が下がっておれば裏で必ずお茶を差し上げる事にしておる。けれども、私がもしここで、まあだ御用の時間であったり、私はそれに加わらない、もうそのまま、お礼を云うて帰られる。丁度私が後一・二十分、いつも八時半に下がりますから、八時ちょっと過ぎ後に、お礼に出て見えられ、それであの御祈念そして御理解を頂いて帰られるのと、私がここを下がらせて頂くのが、同じ時間になった。
 ですから私はどうぞというて、私の部屋に案内してお茶を差し上げたような事です。ならもしそれを八時それ前になら、同じような意味でお礼に出てみえられた方があるとするか、なら私がここで、ただお取次させて頂いただけで、お茶も差し上げないで帰すような事になるでせうけれども、それでいてなら、神様はもし人が見たら、はあ、あちらの家族にはお茶を出されて、こちらの家族にはお茶も出されなかったというふうに見えるかもしれん。
 だからこの辺の所が人間心を使はずにいわば神心というのではなくて、やはり神ながらの扱ひをするという事。
 だから合楽の場合は、必ず神ながらな扱ひです。自分は呼ばれたとかよばれなかったじぁない。その呼ばれる時間にいうなら、居れる時間にお礼参拝させて頂いたから、大和さん達親子四人の方達にまあお茶を差し上げる事になったんです。
 だからいわゆる神ながらという事。
 だからこりぁ御信者さん側に云うても、同じような事が云えると思う。お互がまあここでは人間心いうならば、信心の手篤いのが真の信者じぁとこう仰せられる。それには、やはり神ながらな信心をしてもらわねばならん。神ながらな信心の中には、確かに人情と神情とを一つにしたような働きがおこってくるんです。いわゆるまあ神様がコントロールして下さるというでしょうか、人間の行き方の中にはね、そんな例ば人情を使はないとだけではいけない場合があります。けんどもそん時、そん時のいうなら状態、いうならば自然の働きというか、そういう働きを見ながら、又は感じながらの人情である。それはもう人情ではなくて、神ながらなものだという事になるのです。勿論神心をもって一切を思う、する事があるけれども、人間生きていく為生活の為にはそこには神ながら、いや神情というだけではいけない。出けない場合がある。
 そういう所をです、私はこれは今申しますように、取次者教師に対する御理解でしょう。けれども、それをここに御理解にこう頂いてみてなら、一般信者の方がこれを聞いてから、どういうふうに感じられるだろうか。内の先生は成る程おかげ頂きなさらんはずじぁ、人間心ばっかり、使いなさるからというふうに思う人があるかもしれませんね。人間心ばかり使う教師に対しては。もう自分達はもう信心も出けんけん粗末に、扱はれるというふうに思う人があるかもしれませんよね。僻むような人もあるかもしれません。けれども私はこれを頂きながら、私は一番間違いのない頂き方は、最後にありますようにね、神様が神ながらに取り扱うて頂けれるような真の信心を目指し、いうなら信心の手篤いのが真の信者とおっしゃる手篤い信心をさしてもらい、真の信心を目指して頂いて取次者先生からも神ながらな取扱い受けられるような信心を願はなければならんというふうに思います。僻み心とかそれを人間心で受けるのではなくて神ながらな受け方の出けれる信心を頂かなきぁならん。
 この御教えを頂いてそういう、本当に真の信者を目指さしてもらおう、手篤い信心をさしてもらおう、そこに次に起きてくるのは神ながらな働きなんです。いうならば大和さん御一家のお礼に出てみえた、その時間が丁度私がここに下がる時間と一緒になった。いうならば大和さん御一家が神ながらな神様の取り扱いを受けられる信心が出けておったという事になりますよね。これは見なさん御信者のお一人お一人がそうなんです。私がここへ下らして頂く時間に皆がお取次を願おうとして、ちゃんと時間計画をして、お参りにしてくる人もある。けどもそういうつもりで、お参りしてきよったけれども途中でちょっと時間が、何かで間に合はないという事がある。そういう時に私がここでお取次させて頂く、いわゆる神ながらな働きが十分も二十分もおくれるような時がある。
 いや親先生が座って頂いておってよかった。神ながらな取り扱いを受けたあの人が、参ってきよるけんそれまでは、ここで私が待つとこうといったようなものではないわけです。毎日佐賀から参ってみえる村山さんなんか、昨日・一昨日だったでしょうか、御祈念が非常に時間が五時二十分位までかかったでしょう。兎に角車でやってみえるけれども、やっぱこの雪の道でなかなか思うように走れなかった。今日はいよいよ遅そなしたと思うて、ここへ着かせて頂いて玄関に入った途端に、御祈念が始まった。若先生の御祈念はじまった。まあそういう時の有難い事、まあ本当に今日はいよいよ御祈念に間に合わないと思っとったら丁度神様が待っておって下さったかのように、おかげを下さったいう時がありましょう。
 ああ村川が参ってきよるけんでいっときばっかり、長う待つという人間心を使っておるわけではない、ながらな神様の云うなら、神ながらな取り扱いを受けた事になる。まあこれは信心の上ですけれども、そういうような意味でですね。こちらにはお茶をあげないでというその中にもいうならば、人情ではない神ながらな働きを受けての、又神ながらの働きの受けられれる信心を頂かなきぁならん。
 そういう信心がいうなら実意丁寧ないうなら今日の信心の手篤いのが真の信心。真の信者をいよいよ目指して頂くときにそういう所にそういう働きがおこってくると思います。頂き所は、だからここだというふうに思います。これが取次者がこれを頂いた時には、はあ本当に自分の人間心を使って信者に接してはいないかというような、勿論反省を促す事の御教えでしょうけれども、これを一般に頂く時に神ながらいうならば神情・人情というその中に、それをコントロールする、したような働きいわゆる神ながらな働きそういう働きを頂き、そういう又表わし出けれるような信心を頂きたいですね。                            どうぞ